第8章 造作 / 記憶の連鎖(前編)

記憶の連鎖
 江戸時代、わが国は世界に先駆けて循環型社会を構築していた。自然環境が豊かな気候風土のなかで、太陽と植物からの自然エネルギーと人力・馬・牛によって暮らしがなりたち、エネルギー効率が極めて高い究極の循環型社会を実現していた。
 先人たちは住まいの新築、移築、増改築にさいして、構造材、造作材、壁土、畳、建具など家づくりのすべての部材にわたり再利用することをあたり前のようにしていた。
 しかし、残念なことに近年の住宅では、解体して移築や再利用することはほとんどなく、大方はスクラップ&ビルトになってしまった。かつて循環型社会を構築し『清貧』という言葉を理解していた日本人が、なぜ、そのような資源の無駄使いを平気でするようになったのだろうか?

 戦前まで、都市に暮らす7割ほどの人々は借家住まいが普通だった。文豪、森鴎外が引っ越し後に夏目漱石が暮らした早稲田の家、幸田露伴が向島で住んだ蝸牛庵 (かぎゅうあん) も借家だった(現在、その2棟は愛知県の明治村に移築・保存されている)。

 敗戦後、焦土から復旧・復興するため、この国では工業とエネルギー分野に国家予算を集中的に注ぎこみ経済成長を推進してきた。
 1960年代からの経済成長にともない、都市へおおくの人々が移動した結果、住宅の必要性が高まり、都市周辺では公団住宅が建てられ、宅地開発も盛んにおこなわれた。そして、国民の豊かな暮らしを実現するため、裾野の広い住宅産業分野の育成とあわせ建築費融資を持家制度として政策的に推しすすめ、国全体の資金循環も計った。

 昭和50年(1975)、国家プロジェクトとしてハウス55計画が策定され、昭和55年を目標に100㎡の住宅を500万円代で実現しようという計画で、高品質・低価格・工期短縮などをテーマに工業化住宅の開発がスタートした。住宅産業や大手ジェネコン各社をまきこんだ開発となり、建築部材を工場で大量に生産し、高品質・低価格を目指した。そして汎用性・多様化とあわせて建設現場での工数削減のため、各種部材の乾式化や部品のユニット化もはかるようになった。

 木材については「狂う、腐る、燃える」という木の本質的な特性を押さえた、燃えない、腐らない、狂わないような造作材や、木材を薄く剥ぎ合板に貼りつけた床材などが工場で生産されるようにもなった。
 また、職人作業による左官壁は工期短縮やコストダウンのため、布材やビニールクロスを壁に貼るといった乾式工法にとってかわった。

 このような時代の変化をとおして、暮らしをつつむ空間の質はおおきく変化した。このころから建てられはじめた庶民の住宅では、経年的な使用に耐える自然素材が消え、暮らしでできた傷や汚れが気になるようになり、使いこんだ室内空間を感じることもなくなった。築10年前後で古くなった仕上材は、内装リフォームで取りかえることを前提とするようにもなった。

 工業生産された新建材のおおくは使い続けると徐々に劣化する傾向がみられる。日々の暮らしのなかで手を入れ、使ってゆくうちに愛着のわく素材とはことなり、少しでも手間をかけ使い続けようという気持ちにはなりにくい。工業化で生産された内装仕上材を多用する近年の住宅づくりは、我が国独特のものであり、それがスクラップ&ビルトを助長させてきたのかもしれない。欧米における一般的な庶民の住宅では、ごく当たり前のように自然素材を使い、中古住宅市場が成立している。
 建築ローンが返済するころ、土地評価をのぞいた中古住宅の査定額はほぼゼロになるというこの国独特の不動産評価システムとスクラップ&ビルトの消費型モデルが構築されていった。

 その結果として、以前は「家を建てる」という感覚であったが、近年では「家を買う」とか「家を買い換える」いう価値観の世代が多数をしめるようになってしまった。
 近年、中古物件のリノベーションという動きが、若いゼネレーションによりビジネスとして成立しつつあるのは、希望ともいえる。30年間つづいたデフレ現象により、経済概念が皮肉にも日本人が昔からもっていた清貧気質を呼び戻したようにも思える。

 先進国における年間の住宅完工戸数は平均して人口の0.5% 程度である。わが国の新設住宅着工戸数(戸建+集合住宅戸数)のピーク時10年間(1971年〜1980年)を平均すると、年間1,687,000戸に対して平均人口111,770,000人で計算すると1.5%となり、先進国の約3倍もの驚くべき数値となる。1960年代末から2009年のリーマンショック前年まで、40年ほど続いた新設住宅着工戸数が年間100万戸を超えるという数値は世界的に見ても極めて異例といえる。(国土交通省・住宅着工統計および総務省統計局データをもとに計算)
 諸外国における住宅建設は地域の建設会社が担うケースが一般的であり、住宅産業が成立するというのはこの国独特の社会構造といえる。それによって地域の良質な工務店が減少し、工業化による弊害で伝統的な価値観の家づくりや地域社会をつくってきた生業をもなくしてしまった。

 この国の持家制度は短期的にみれば成功したかのようにみえる。しかし、50年、100年という長期的視点に立つと循環型社会の本質からは逸脱した制度のようにも思える。
 自分自身ハウスメーカーで職を得て、暮らしを成りたたせ、家族を養い、自宅を建てる体験もしたが、人生の一部分は功罪あわせもつ社会制度という大きな枠組みのなかで成り立っている、と痛感した。

 「燃える、狂う、腐る」という特性を持つ人間の暮らしをつつむ住まいには、日々の暮らしの痕跡が残り、家族の思い出が宿るのではないだろうか。何年も暮らし使いこんできた建築部材には、家族ひとり一人の記憶が刻まれているのではないかとも思う。丁寧に暮らしてきた室内空間には一種独特の落ち着きと、住み続けてきた人の心意気をも感じとることができる。
 職人の手がかかった自然素材と工業化された新建材で作られた家との違いは何か? 五感刺激における気持ちよさのクオリティーが全く異なる。適度な湿気、柔らかな光、しっくりした手触り、素材の香り、柔らかな音の反射はオーディオ機器から発するサウンドの響がまるで違う。

 屋外で体を動かし、汗をかいた足裏で畳や木の床材を歩くと汗を吸いとりさらりとした感じになり気持ちがいい。内装材に調湿作用のある自然素材でつくられた高断熱・高気密の現代住宅では、梅雨時、外出先からもどり室内にはいると、相対湿度が数パーセント違うだけでからっとした爽やかさを感じる。一方、新建材につつまれ24時間換気された空間に入ったとき感じる湿気は、エアコンの除湿をかけずにはいられない。 
 自然素材にあたる光は目に優しく、その反射率は人間の皮膚にちかい50%前後になる。和紙をとおして室内に入ってくる拡散光は床材や塗り壁に反射し、柔らかな光につつまれた室内空間の雰囲気はわが国独特の住文化といえる。

 床材や柱についた傷、建具の金物や引手など日々手に触れるもの、それらの部材に囲まれ家族が育ってきた温もりにつつまれた暮らしは、遠い幼いころを思い出すきっかけともなり、記憶が蘇る。そのようなモノ達に囲まれて暮らすと心のよりどころとなり、落ち着いて気持ちがゆったりする。住まいや暮らしには精神的なよりどころを感じさせるモノが、身近にあったほうがいいのではないだろうか。家に帰った時のほっとする感覚と落ち着き、自分の気に入った素材に囲まれた暮らしは何物にも変えがたく住み続けたくなる。これが愛着に繋がるのだろうか。

 わが家では、新築や増改築の折、今まで暮らしてきた家の建築部材を有効に活用するのが慣わしとなっていた。遠野への移住にともなう終の住処づくりでは、もちろん家風にならい、東中野の家の暮らしで慣れ親しんだ建築部材を可能な限り使いまわすことが重要なテーマとなった。それは「記憶の連鎖」と表現していいのかもしれない。
 30代の後半に建て替えた東中野の家では、子供のころ暮らした家や20代半ばに増築した部分の建築部材、母が娘時代を暮らした赤坂の家の磨丸太や建具、父のアトリエにある神棚など多くの部材を活用した。それら数軒にわたる暮らしの記憶に残る建築部材を、終の住処の造作に活用する。
 この家は首都圏直下型地震に対応できるよう地震力に強いモノコック構造で建てたため、構造材の移築は残念ながら不可能であり、それ以外は終の住処づくりに活用する。

 家づくりは社会の構造、制度、価値観そのものを表しているといえる。現代社会における終の住処は企業が運営する「老人ホーム」が一般的になってきた。僕は伝統文化を暮らしの中で体感できる時代に育ち、幸いにも住まいを建てることも体験できた。遠野高清水における終の住処づくりは、古きよき時代の家の継承の延長線上に成り立つものであり、今の時代では難しいことなのかもしれない。

人生のラストステージはこの世に生まれてきたミッションを意識しつつ、自分らしい暮らしを真っ当したいと考えている。

 8章の工事項目は2017年12月中旬から2018年3月末にかけて施工し、あわせて冬季における床下蓄熱放射暖房による室内温熱環境の試行運転も実施する。

トピックス8-1 東中野の家 解体
2016年12月下旬、一週間かけて床材、天井材、造作材や設備機器など使える部材を取外す。

30年間使った暖炉火箱を取りはずす
床材をはずすと温水床暖房パイプが現れる
床材、天井材、造り付け棚を取りはずす
 システムキッチンを取りはずす
浴室の壁と天井から檜板をはずす

 トラックに積みこみ、550km北上し、激しく雪の降る夕方、遠野の倉庫に運び込む。

トピックス8-2 夜なべ仕事
 終の住処建設中の仮住まいは遠野市所有の4階建鉄筋コンクリート住宅(かつて首都圏でも流行った1DK公団型住宅)で、移住者が優先的に居住することができた。賃貸料は市価の半値ほどでありがたかったが、昭和40年代初めに建てられた建物であるため断熱性能は配慮されていなく、エアコンなどの設備はなく、暖房は灯油か電気ストーブで居住者が用意することになっていた。換気は窓を開けるか、キッチン換気扇を回すかのどちらかで、せっかく温めた室内に外の冷気が入りたまったものではない。灯油ストーブを焚くと酸素を使いCO2濃度が増し、室内の空気環境は瞬く間によろしい状態でなくなり、その結果、頭が重くなり窓ガラスに結露・氷結して窓が開かなくなる。

 後方が仮住まい、吹雪くと軽トラは雪まみれ

 そのため、室内空気を汚さないオイル蓄熱ヒーターを使用することにした。しかし、このストーブは放射式であり気持ちはいいが建物の断熱性能が最悪であるため、一ヶ月の電気代がなんと5万円近くにもなり、お財布が悲鳴をあげてしまう。そこで、起床時の室温が15℃以下にならないよう最低限のECO運転にせざるを得なかった。

 建設中の終の住処の現場は試運転中の床下蓄熱放射暖房で、仮住まいより快適な温熱環境であるのはせめてもの救いである。遠野の伝統的民家や戦後建てられた住宅は断熱性能や暖房設備が十分でないことがおおく、終の住処の建設を手伝ってもらう大工さんは、自宅よりこの現場の方が暖かく体がリラックスして気持ちいい、といっていた。

 仮住まいでは足元にヒーターを置き、施工詳細図や造作の納まり図面の作成をしていた。この作図が工事工程より先行している場合は、夕食後、音楽を聴きながらオリジナルデザインの知恵の輪づくりに夢中になり、寒い住環境をいっときでも忘れるよう過ごしていた。

 この知恵の輪を考えたきっかけは、1972年、積雪期に北アルプス剱岳八ッ峰を初登攀した時である。第I峰の急峻なピークにたどり着いた夕方、予想より急激に発達した爆弾低気圧の暴風雪に襲われ、雪穴に三日間足止めビバークした夜、夢のなかに現れた氷壁登攀の切羽詰まった場面が発端であった。
 クライミングロープを上手く処理できず、急峻な氷壁で立ち往生し、時間の経過とともに手足に痙攣をおこし最悪な状態まで追い詰められてしまった。いよいよ力尽き、氷壁から墜落する瞬間、叫び声をあげ、自分の大声に驚き飛び起きてしまった。気がつくと息苦しく口をパクパクさせていた。雪穴の入口と天井に小さく開けておいた換気用の穴が風雪でふさがれ、酸欠になっていたのだ。
 夢の中にでてきた通常とは異なるトリッキーなロープ操作の解決方法が閃いたのは、八ッ峰登攀に成功した帰途、弥陀ヶ原の大雪原(ゴルデンウイークには除雪しバス道路が開通、積雪高さが10mを超える「雪の大谷」という観光名所)をスキーで快適に飛ばしている時だった。3年間狙い続けた課題を達成し、底抜けの開放感を味わいながら滑走していると、何の前触れもなく突然頭のなかにロープ操作の解決方法が閃いたのだ。
 最終的にこの形に落ち着いたのは10年後、子供のために知恵の輪シリーズを考えていた時である。

8-1 玄関まわり

玄関ポーチ柱
 父のアトリエの南側には銀杏の木が5本あり、夏には気持ちのいい日陰をつくり、晩秋には地面いっぱいに 黄蘗色 (きはだいろ) のふかふかなカーペットが敷きつめられ、子供たちお気にいりの遊び場だった。敷地整理のとき、この銀杏を伐採せざるをえなかったが、この木はその後、我が家の暮らしに多方面にわたりよりそい役立ってくれた。
 立派な二本は、改築していた家の玄関柱と母の日本画・書道教室の柱としてもちいた。その後、この玄関柱は30代後半に建て替えた住まいの2階玄関に上がる階段脇の柱となり、

その30年後、終の住処の玄関ポーチ柱として落ち着くことになった。

玄関框
 当初、玄関框は床フローリングとおなじ栗材にしようと考えていた。遠野に移住後、栗の厚板を探していたが気に入ったものは見つからず、最終的に杉磨丸太の面を落とし玄関框として使うことにした。
 この磨丸太は、母が娘時代を暮らした赤坂の家の床柱であり、その後の変遷をへて、東中野で建て替えた住まいの子供部屋の柱としてつかい、

終の住処では玄関框として活用する。数度にわたる造作材使用で丸太にはいくつもの刻み跡が残っていたが、その部分が表面に現れないよう配慮した。

下地用力板
 暮らしのなかで壁に絵をかけたり、棚を吊ったり、照明器具を取りつけたりすることがある。前もって壁のどの位置に何を取りつけるかわかっている場合、造作工程で壁下地材のなかに力板を取りつけておく。
 玄関まわりでは、壁付照明器具とコート掛けの二ヶ所に力板を設置した。

下駄箱
 下駄を履かない現代人が多いのに、玄関にある靴入れを下駄箱というのは、かつての時代感覚をひきずっていて面白い。最近では下駄箱というより玄関収納と名づけられ、靴やコート類を収納することが一般的である。
 現代人一人あたりの履物の数はかなりある。下駄箱に収納できるのは季節ごと日常的につかう靴やそのメンテナンス用品を入れるだけで、いっぱいになってしまうだろう。使用しない靴類は箱に入れ、クローゼットや納戸に収納しておくことになる。
 僕自身、現役時代にもっていた靴の数は20足ほどであった。ビジネス用革靴4足(黒と茶色2足づつ)、そのほか外出用2足と冬用ハーフブーツ、運動用スニーカー2足、サンダルや下駄類。趣味の登山靴は5足/夏用、冬用、高所用、岩登り用、ハイキング用。スキー靴は3足/滑降用、山スキー用、クロスカントリー用。ゴム長靴は夏、冬用2足など。
 家内にいたっては、はたして何足持っているのだろうか? 正確に聞いたことはないが30足は優に超えるだろう。おしゃれ用の靴、普通の外出用の靴、季節のサンダル類、冬用ブーツ類、フィットネスクラブ用運動靴、ウオーキング用靴、和服用草履・下駄、そしてゴム長靴類などなど。
 終の住処での暮らしは「シンプル イズ ベスト」の基本に立ちかえり、靴の数はぎりぎりにまで整理する。なので、玄関用の下駄箱は30年来使ってきたものをそのまま使い続けることにした。

獅子レリーフ
 2番目、3番目の家では獅子のレリーフ(父の作品)が玄関奥の壁に埋め込まれていた。子供のころ、出掛けるとき、そして帰宅したときはごく自然に「行ってきま〜す」、「ただいま〜」とこの獅子に声をかけていた。
 今回も玄関から居室空間に入る正面の壁に、このレリーフを取りつけることにした。左官の塗り厚を考慮して下地に固定する。

トピックス8-3 娘の帰省

 娘のサトコから冬休みは遠野で過ごしたいとメールがきた。27日に現場仕事を納めたあと、大掃除を手伝ってもらう。掃除はいつも1人だが、2人ですると隅々まで片付き、気分がいい。久しぶりに娘と過ごす時間はいいものだなぁ、と思った。

 搬入した東中野の建具類を整頓
まず箒と塵取を使い、掃除機をかけ、モップで拭く
工事現場用の強力な掃除機

 建物は気密性がいいため、吹雪く音は聴こえてこない。

 夏から続いた綱渡りのような突貫工事も多くの方々に助けていただき、無事に年末を迎えることができ、感慨無量である。蓄熱暖房の試行運転も順調にすすみ、厳冬期も室内で造作工事を進められる見通しがたち、本当にありがたかった。

8-2 居間(台所をふくむ)
 居間空間は3間×3間(18畳)の広さで、台所もふくんでいる。玄関、和室、寝室、サニタリーにつながる家の中心的な居場所であり、引戸を開けはなすと家全体がワンルームのように使える。

大黒柱
 大黒柱は家の中心にあり、建物の構造をささえる重要な部材である。この柱は遠野駒木集落で明治初期に建てられた伝統民家である南部曲り家の部材で、150年ほど住み手の暮らしをささえていた。解体された建物の 差鴨居 (さしがもい) を終の住処の大黒柱として引き直し、再利用する。
 この材は落葉広葉樹の 針桐 (はりぎり) で欅のような味わい深い木目があり、柱に古色をほどこすと風格を感じさせるに違いない。

 針桐は別名 栓木 (せんのき) ともいい、加工がしやすく、わずかな湿気で微妙に膨張するため(びん) の栓として用いられてきた。ウコギ科の高木で山地に自生し、高さ20メートルほどに成長し枝は太く鋭いとげがある。葉の形は特徴的であり、天狗の団扇ともよばれている。

 木肌は荒々しく彫りが深いのが特徴
葉は大型で長さ幅ともに30cm近くなり、長い葉柄をもつ

 クイーンズメドウの大岩エリアには大きな針桐が何本も自生し、新緑や紅葉時期にはこの木の下で寝そべり、葉の間から青い空を見あげ流れゆく雲を追いかけ、ゆったりとした時間を過ごすのを楽しみにしている。

床材
 東中野で30年間暮らした家の床材を終の住処で再利用する。当時、床暖房の熱でも狂いが少ない無垢のフローリング材は販売されてなく、合板に厚さ0.2〜0.3mmほどの突板を貼った床暖房用フローリングが一般的であった。しかし、この新建材の床は長期間の使用にはむかないと考え、床暖房の熱にも耐えられる無垢材のフローリングを探していた。
 そんな時、たまたま本屋で立ち読みしていたインテリア雑誌のなかに、床暖房施工会社のオーナー宅で栗の無垢材を使っていた記事が目にとまった。イゼナという会社名で前田さんという方が経営されていた。その熱にも耐用する栗材フローリングは、前田さんが岩手の木材会社と共同で開発し、販売しはじめたところだった。床材がきっかけとなり、その後、前田さんとは長いお付き合いをさせていただき、終の住処建設の重要な部位である熱部材Heat Battery の性能試行実験をご一緒するまでの間柄となった。

 30年間、我が家の生活を足下から支えてくれたこの栗材フローリングは、植物性のワトコオイルを拭き取って仕上げたが、年をかさね落ち着いた色艶になった。

 東中野の家を建て替えたとき、床暖房の熱による微妙な寸法変化にも対応できるよう釘止めにしたため、簡単に取り外すことができた。近年、一般的に使用される新建材の合板フローリング材は、構造用合板に接着剤と釘で固定するため、材を取りはずし再利用することは不可能にちかく、スクラップ&ビルトせざるを得ないシステムになっている。

 蓄熱槽を設置している床下空間の冬期温度は、室温より8〜9℃高く安定している。開口部のガラス面に発生する冷気の下降流(コールドドラフト)をおさえるため、床面スリットを設け床下空間から温風をゆるゆると吹き出すようしている。

 このフローリングを取り外したとき、一部の床材にひび割れが入ったため、取り付けには接着剤使用の箇所もあった。

 30年後、不思議なご縁で遠野に終の住処を建てることになり、まさかこの床材が岩手に里帰りするとは、家を建てた当初はまったく予想だにしなかった。

天井材
 30年間暮らした家の天井材も終の住処で再利用する。この素材は柾目ラワン合板3×6定尺サイズを巾1尺5寸(45cm)に割いてつかっている。この材は広い部屋の天井でも、狭い部分につかっても納まりがいい。床材とおなじようにワトコオイル仕上げをして10年ぐらい時間がたつと、落ち着いた色合いになる。

 天井材と壁材の見切りには 廻縁 (まわりぶち) を取りつけるのが一般的な意匠であるが、天井を視覚的にすっきりと軽やかに感じさせるには、何もない納まりのほうが美しい。天井材を貼り上げる大工仕事、壁を塗る左官仕事ともに細やかな施工精度を要求するが、施工時わずかに神経をつかうだけで、長年暮らしていても気にならない。

 かつて我が家に滞在したアーコサンティの友人は、この最もコストパフォーマンスのいいラワン素材の天井を、上質なチーク材のようだと評価してくれた。

トピックス8-4 QMCHちょいワル三老人?

 クイーンズメドウ・カントリーハウスでは70歳代の年長者が3人活動しており、若手メンバーや関係者からはいろんな名前で呼ばれ、イジられている。舞台メイクを落とした忌野清志郎、内田裕也、井上陽水、白髪頭の三老人、Three gray hairsなどなど。

左より今井さん、田瀬さん、清水 : Photo E.Tokuyoshi

 三人がそろうことは滅多になく、そろったとしも三人並んで写したのはここ10年でこの一枚限りである。年初にあった大沢温泉でのクイーンズメドウ全体会議の帰途、休憩で立ち寄った風の丘での貴重な一枚。

 今井隆さんはQMCHの創始者であり、事業計画および資金計画を策定し1/4世紀もの長い期間にわたりクイーンズメドウの活動を資金面でも支え続け、若手への事業継承に情熱を注いでいる。
 田瀬理夫さんはランドスケープデザインを担当し、時間をかけクイーンズメドウの風景を丁寧に創ってきている。そして、彼の切れ味のいい語りは秀逸である。
 僕は建物施設の営繕、ゲスト滞在時の気持ちいい室内の微気候(温度、湿度、気流、放射)コントロール、森林環境整備など現場全体の萬屋を担っている。

 自然環境の中で実施されているユニークな事業は、全国にはいくつかの事例がみられる。しかし、残念ながら一世代限りで終わるケースがほとんどである。クイーンズメドウにおいて若人への事業継承は確実に進んでおり、最近、70代三人は「奥行き担当」とも呼ばれるようになった。若者が事業活動の前面にでて、老人は裏方として若い世代を支える役割に落ち着きつつある。
 事業継承の中心である仲のいい三人コンビは、若手リーダーの今井航大朗さん、松井真平さん田瀬順三さんである。

 左より松井さん、今井さん、田瀬さん

台所 流し台、食器棚
 東中野の家で使っていた流し台は3.5メートルの長さだった。

子育てもすみ、終の住処では2.5メートルに短くする。幅1メートルの流しは60センチの小ぶりなものに変え、調理台は40センチ短くした。流し台のカウンタートップ材はデュポン社のコーリアンを30年使い、満足のいくクオリティーであり、二ヶ所切断し補修剤で繋ぎあわせ再利用することにした。

 流し台はシステムキッチンであり、部品を分解し再構成することにしたが、予想外の手間と時間のかかる厄介な仕事となった。
 長年使ってきたキッチン収納は奥行60センチあり、少々使いづらく、終の住処では奥行きを45センチに切りつめることにした。収納部分を15センチ切断し、その部分を補強することはさほど難しくなかった。しかし、引き出し部分全ての奥行きを短くし、短い引出レール金具を新規に付け替える作業は、根気と手間がかかった。

 流し台と食器棚を取りはずして遠野へ運び、倉庫に保管し、一年ほどたってから建築現場に搬入し寸法をつめ再組立する時間・手間を考えると、新規に設計し現場でつくったほうが楽であり、コスト的にリーズナブルだったかもしれない。しかし30年間使いつづけ、まだ使用に耐えるモノを廃棄処分にすることは忍びなかったのだが、正直のところこの体験は二度と味わいたくないほど疲れた。

暖炉
 我が家では子供のときから日常的に火を焚いていた。父のアトリエからは木端がでて、ご近所にある建具屋さんからは鉋屑をもらうことができ、それらでご飯を炊き、風呂を沸かし、アトリエでは炉やダルマストーブで火を焚いていた。赤々と燃える炎の変化するようすは子供心にも魅かれるものがあり、綺麗だと思った。そして、体の芯から温まるその炎はここちよいものだった。しかし、ちょっとした不注意で鉋屑の入った俵に火が燃え移ったとき、生き物のような火の勢いに身が縮むような恐ろしさをも体験した。
 晩秋の夕方、庭で焚き火をして、つるべ落としのように陽が沈むころ、夕焼けから薄暮の空、そして藍色の空に一番星を見つけるまで、炎の色合いが足早に変化するさまは、なんともいいようのない懐かしさと安心感があった。

 30歳の半ば、1月に父、翌年の早春には母を亡くし、一年ほどの間に両親を失ったことは、体験したことのない悲しみであった。四十九日の法要がすみ、落ち着いた暮らしにもどるころ、心の中にぽっかり空いた洞を消し去ることができず、途方にくれていた。
 ひと気の無い両親の暮していた空間に佇んでいると、いいようのない寂しさがこみあげてきた。そんな時、燃える炎の暖かさを前にしていると気持ちが落ち着き、子供のころから身近あった炎には不思議な力が宿っていることを認識した。

 父母を送ったあと、しばらくはその寂しさを忘れるかのように家づくりを模索していた。30代後半に建て替えた家は、周辺環境が急激に変化し都市化したため、2階を居間空間にした。耐用年数のある鋳物製の暖炉を設置することは構造的に無理があるため、鉄板製火箱タイプにした。

1階テラスにも暖炉と燻製もできる炉を設計した。(第4章アウトドアキッチン参照
 
 暖炉火箱の室内側は耐火性のある大谷石でつくることにし、栃木県大谷の石切場で定尺寸法より大きい石を切りだし、加工してもらった。
 石の上に取りつける暖炉の棚材を探していたが、気に入ったものが見つからず、工事は左官工程まですすみ、左官仕上げとの取り合いをどうするか、はたと困っていた。

 左官名工の加藤信吾さんから「この部分の仕上げはどうしますか?」と聞かれ、木材の棚を取りつける予定だがいい材料がまだ見つかってない、と話した。
 一週間後、加藤さんと土佐漆喰の仕上がり見本の打ちあわせをしたとき、真っ黒に煤けた太めの材を持参され「これを使ってみてはどうですか?」と提案してくださった。その材は江戸初期に相模国月ヶ瀬村に建てられた民家を解体したとき、(かまど) 吹抜け上部に使われていた梁だったとのこと。
 暖炉の棚寸法に引き直し加工すると、渋い赤みをおびた色艶のある欅材で、仕上鉋をかけると綺麗な木目があらわれ、香りまでしてきた。側面は(のみ) で削り風合いのある作りにした。

 終の住処では、東中野の家で使っていた室内の暖炉と屋外炉の両方を移設することにした。暖炉火箱の室内側に大谷石を組み上げ、暖炉棚の欅材を取りつけ、ようやく試し焚きをする。

トピックス8-5 大雪

 今シーズンは数年ぶりに雪が多く、寒さも厳しいようだ。集落から建築現場入口まで1,000mほどある緩やかな登りの公道は、1月10日から除雪車が入るようになり助かる。しかし、公道から家まで80mある宅地内道路は自前で除雪するしかない。
 一月下旬から再び降雪量が増え、一時期、積雪は60cmにも達するが、時間の経過とともに雪はしまり積雪深さは減少し安心していた。が、2月13日からの降雪で、15日の朝には一挙に72cmまで積もってしまった。

除雪された公道

 宅内道路に入ると車体の腹が雪に乗ってタイヤが空転しないようアクセルは控えめにし、雪の中を泳ぐような感覚でハンドルを握り、新雪で見えなくなった轍から落ちないよう全神経を集中して前進させる。その感覚は山スキーで深い新雪を滑るのに似ており、そのスリリングなひと時は血が騒ぐほどである。
 現場までは緩やかな下りであるため、こんな楽しみができる。しかし、除雪をしておかないと帰途は間違いなくスタックし、脱出するまで大変なめにあってしまう。公道から家まで麦踏みの要領で轍つくり、つぎに車体腹部の雪を踏みしめる。これが降雪後、仕事にかかるまえの課題であり、雪が多いと三時間におよぶこともある。

公道より宅地内道路入口(右の建物は旧リンゴ園の作小屋)
宅地内道路は麦踏みの要領で雪を踏みしめる
80m踏みしめるとスリリングな運転を楽しむ
宅内道路は軽トラのみ進入可、建材屋に配達は断られる

 雪の湿り具合にもよるが、屋根に積もった雪は15〜20cmほどになると自然に落下する。その時、室内で作業をしていると体全体にズズズーッという重低音を感じ、初めての時は何が起きたのかわからず、立ち上がって身構えたほどである。
 屋根から落下した雪は外壁から3〜5mほどの間に硬く締まって積みあがり、雪解けの最後まで残っていた。

屋根から落下した雪は西側で最高130cmまで積もる
東側は煙突で二分し、最高170cmにもなった

ダイヤモンドダスト
 2月10日、朝5時半に起きると予想どおり仮住まいは霧につつまれており、盆地は雲海の中である。雲はそんなに厚くないようでいくぶん明るい。急いで朝食をすませ現場にむかう。
 集落をぬけゆるやかな登りとなり、リンゴ畑を過ぎホップ畑にさしかかるころ、雲の上にではじめると別世界に入ったように周囲全体がキラキラと輝きはじめた。ダイヤモンドダスト現象だ。空気中の水蒸気が氷結し、その微細な氷の結晶が朝陽をあび、キラキラと反射しながら大気中を一面に舞っている。
 冬山登山ではよく見かけるが、遠野では初めてである。現場は無数のダイヤモンドが輝く雰囲気につつまれ、盆地の雲海を眺められるという至福のひと時を過ごすことができた。気温はマイナス18.6℃だった。

ダイアモンドダストの輝きはスマホでの撮影は不可、盆地は雲海に沈んでいる

 雪がやんだ夜、動物たちは腹を空かせながら雪の野山に食べ物を探し、歩きまわっているようだ。家の周囲には、タヌキとノウサギの足跡がたくさんある。タヌキはフラフラと千鳥足気味、ノウサギの前足は冬になるとスノーシュー機能を発揮し、どんな深雪でも大丈夫のようだ。前足の指を目一杯広げ(通常の2〜3倍の面積になるらしい)雪面に着地し、その前足が雪に潜りこむ直前に、後足を二本並べ力強く雪面をキックし、新雪の上を自由自在に走りまわっている。
 キツネの足跡は直線的で時々後ろを振りかえるときの様子が足跡に表現されている。
 井戸を掘った傍にあるせせらぎ添いには、硬く踏みしめられた幅広の鹿道がある。相当数の群れが行き来するメインルートのようだ。

 動物たちの足跡

 来シーズンは、鹿の鳴声を聴きながら暖炉の火を楽しめるに違いない。

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