第10章 仕上 / 記憶の連鎖

気持ちいい暮らし
 ここで生まれ、物心つくころは菜園をつくり、朝もぎ野菜を食べ、昆虫採集に没頭し、木登りを楽しんでいた。しかし、東中野の生活環境は60年代以降の経済成長で徐々に変化し、子供のころ窓外に見えた自然豊かな雰囲気は、20数年ですっかり消失してしまった。
 そして、これまであまり感じたことのない、室内から屋外へ流れるような意識の連続性が減少してゆくにつれ、無意識のうち、室内に気に入ったモノがいくつかあると、安らぎと落ち着きを覚えるようになった。

 20歳代の後半ころより、ある程度の年齢になったら気持ちいい自然につつまれた住環境で暮らしたいと願うようになった。子育てが終わり、仕事が一段落した65歳の時、都会から離れ移住することを決断した。
 遠野で終の住処を建てる土地探しに3年近く費やし、土地取得の目処がたってから、東中野の家を整理し、遠野の仮住まいに移動したのは68歳の時であった。諸々の段取りをし、セルフビルドで家づくりを楽しみ、暮らしはじめるのは70歳になるだろう、と計画をたてていた。

 変化への対応力が低下してくる年齢に配慮すると、終の住処を建て生活空間そのものがたとえ新しくなったとしても、使い慣れたモノに囲まれた暮らしの質を、今までの延長線上からずれないようにしておけば、大きな違和感もなく暮らしてゆけるだろうと想像していた。
 床と天井は東中野の家の素材をそのまま使い、塗り壁にし、暮らしをともにしてきた家具、生活用具をそのまま運びこめば、今までと同じような雰囲気で落ち着いて生活できるだろう、と考えていた。
 終の住処を建てる敷地からは、北上山地のたおやかな山並み、盆地内を蛇行する川や水田が眺めることができる。周辺環境からうける五感刺激のある季節のうつろいは、暮らしの質を心豊かなものにしてくれるに違いない。

 かつて子供のころに体験した、四季折々美しく変化する屋外環境のある気持ちいい暮らしをとりもどすことができそうであり、申し分のない住環境といえる。
 建物のハードな部分だけではなく、生身の人間の暮らしをつつむソフトな部分をもふくめた生活環境を整えることは、住環境に落ち着いた佇まいが醸成されてくるのではないだろうか。

記憶の連鎖
 子供のころ母方の祖父母の家にいくと、そこでの日常会話は百年前後のタイムレスな価値観が根底にあるのではないか、とおぼろげながら感じていた。時の流れとともに変化する物事、百年という時間が経過しても変わらないものは何か、を暮らしの中でごくあたりまえに気づき、身に染みるようになったようである。
 
 そういった観点からみると、普段の生活に存在するモノには、時空を超えた物語が染み込んでおり、暮らしそのものの質に大きく影響を与えているのではないだろうか。
 まさに歴史は家族の記憶のなかに存在しており、祖父母や親が歩んできた道を身近に感じることのできる暮らしは、考え事や思い悩む時など、進むべき道のしるべ となるのではないか、とも考えるようになった。子供のころかいま見た祖父母や両親の暮らしに接し、自然にそういった気持ちが育まれてきたようである。

 仕上をするにあたり、長年暮らしてきた室内空間で使われてきた建材、建具、造作材、家具、調度、壁面を飾る絵などに配慮し、ここちよく落ちつける室内環境にしたいと考えていた。身近に暮らしのヒストリーが連続することにより、落ち着きと精神的なよりどころがある室礼しつらい)にしたいと考えていた。

 仕上げ工事は2018年7月からはじめ、9月末にかけて施工し、10月に入ってから引越する。

10 -1 玄関まわり

 床下に蓄熱槽を設け基礎が高いため、玄関ポーチと階段は地元の鉄工所に依頼する。ポーチへの階段はゆったり登りたいので、蹴上は150mm、踏面は300mmにする。人体寸法に配慮した登りやすい階段は、蹴上+踏面=450mm前後が適しており、年齢を重ねると姿勢が前かがみになりやすく、身体のバランス感覚が低下するため、手摺の高さは800mmとした。

 玄関ポーチの落ち着きと西日避けをかね、東中野の門で使った幅2メートルの大戸を活用し、スクリーンとした。屋外で30年使った格子戸は墨で着色し、無塗装の壁面のなかで玄関としてのアクセントをつける。

 ドアーを開け玄関に入ると、造作段階で壁下地に力板を取りつけた位置にコート掛けと照明器具を固定する。

 東中野の家を設計していたころ、玄関ホールにコート掛けを検討し、よく使われる金属製のフックではなく、木製の柔らかなデザインはないものか、と考え頭の隅に入れておいた。そのころ、たまたま時間調整で立ち寄った青山のインテリアショップで波形のコート掛けと出会い、これだったらコートが不要な季節でも洒落たオブジェになるのでは、と思い手に入れた。

 玄関ドアーは外部建具のところでのべたように、関東地域で使ってきた木製の扉は断熱・気密性が低い。玄関部分を熱的なバッファーエリアにするため、居間の入口には東中野1階の多目的室用に自作した遮音と断熱性のある木製ソリッドの引戸を再利用する。

10 -2 居間

 玄関から引戸を開け室内に入るとロフト下の低い天井部分で、数歩進むと吹抜け上部の棟木までのびる大黒柱がある。この柱は、解体された伝統民家の南部曲り家で使われていた差鴨居さしがもいを、この空間に見合うよう挽き直し、使いまわしたもので、アトリエの大黒天を祀った神棚をそのまま移設した。

これからスイッチ、コンセントプレートを取り付ける

風神
 父の作品である風神はサイズがあるため、それなりの空間と壁面がないと飾れない。居間空間にはこの風神と暖炉、それに台所がほどよく収まるようにしたかった。
 このレリーフの素材は桐の板材を二枚 ぎあせている。この桐は青梅街道沿い成子坂の東京医科大学病院の隣に知人の時計店があり、その庭にあった樹木である(現在この界隈は西新宿という地名に変わり、高層ビルが立ち並んでいる)。街道筋の町屋のような奥行きのある敷地の南端に、直径二尺ほどの見事な桐があり、その木が台風で倒れ、材を活用するため父が木挽(こびき) さんを手配し板材にした。
 小学5年生ころだったか、父と二人でわが家までその板材を運んだ思い出がある。桐は箪笥や下駄をつくる軽い材だが、両手に二枚の大きい板を抱えながら家までの道のりは、子供にはちょっと大変だった。成子天神の前を通り、淀七小学校の横をぬけ、大久保通りにでて、神田上水を渡り、家までやすみ休み一時間ほどかけて運んだ。

習作雷神 西外壁

トピックス 10 −1  竪琴演奏の奉納
 遠野へ移住し、セルフビルドで終の住処を建て、クイーンズメドウ活動に参加する決断を、創始者の今井さんに伝えると、彼は「クイーンズメドウをはじめてから20年になるが、都会から移住し、活動に参加してくれるのは、清水さんが初めてですよ」、と喜んでくれた。
 今井さんは地鎮祭の時、上棟式を執り行う日に東京から馳せ参じ、その後も工事の節目ごと足繁く建設現場に来ていただくようになった。

 一年後、仕上工事も最終段階をむかえるころ、今井さんから連絡が入り「竪琴演奏を奉納したい」、と唐突に話され、一瞬 ?と思い、返答に窮した。
 すると彼は「人里離れた雲海の眺められる山中に道を造成し、井戸を掘り、終の住処を建てることは普通ではありえない。それはまさに狂気の沙汰であり、家というよりは城とか寺を建立するに等しいことだと思う。新築祝ではなく、神社仏閣で神事を執りおこなうような格調高い礼を尽くすことがいいと考えており、竪琴演奏を奉納したい」、と彼は大真面目に話された。
 彼は、宇治平等院鳳凰堂の阿弥陀如来を祀ってある御堂の壁面上部に、雲に乗って楽器を奏でる天女たちの極楽浄土の情景をイメージされているようであり、少なからず恐れ多く驚いてしまった。
 終の住処をこのような場所に建てたことに最大の礼を尽くして下さる、という今井さんの申し出にはしばし戸惑ったが、心よりお受けすることにした。

 2018年9月3日夕刻、アルパ(スペインから持ち込まれ、南米パラグアイで独自に発展した民族楽器)奏者の吉田リコさんが首都圏から来訪され、竪琴演奏という有り難い奉納をしていただき、感激した!
 演奏曲目はコンドルは飛んでいく(ペルーの伝承音楽)、星めぐりの歌(賢治)、月下想(リコオリジナル)。

 Photo T.Imai

カンティレバーブリッジ

パオロ・ソレリ 1979年 シルクスクリーン 砂漠の夕焼け メサ(台地)を繋ぐ片持梁の橋
弟子入りした時期にブリッジシリーズを創作していた

 90年代なかば、パオロは中国での仕事の帰途、東京に三日滞在した折、彼のガイドをした。最終日の夕食のとき、僕は彼にこんなことを話していた。「アーコサンティで学んだことや考えてきたことを、まだ自分の人生で活かしきれてなく、パオロにお会いすることがとても気後れなのです . . . 」
 パオロはしばらく遠くを見つめるような眼差しをして、穏やかにこう語った。「日本の建築やそれをとりまく環境は、世界のどこにもないほど美しく自然と調和し、いい関係性を創っているように感じる。そこには、日本人の建築や自然にたいして深く洞察する文化があり、多くの知恵があるようにみえる。今の日本は、その知恵を理解し活かしているのだろうか? ケイジはどう思う?」
 ホテルまでお送りした時、彼は微笑みながら「部屋に来ない?」といった。 
 図面を入れる大きめの紙筒からベットの上に3枚の絵をとりだし、「どれが良い?」とウインクをした。気に入った一枚を手にすると、サインしてくれた。

障子
 30歳のとき、よく晴れた冬の午後、建築家 吉村順三氏の自邸を拝見させていただく機会があった。居間の障子をとおして入ってくる拡散光につつまれた美しい室内空間の雰囲気、障子を壁に引きこんだ時に室内から庭へむかう光のグラデェーションと視線の連続するさまに、しみじみと美しいなぁと感動した。
 彼のデザインする障子は、太めの組子を大きく割付けており、洋間にもエレガントに映え、心惹かれた。

 この感動体験をとおして、30代終わりに立て替えた自宅には、洋間、和室ともに障子をつけ、四季折々の変化する光を楽しむようになった。障子を入れただけで、冬の寒さ、夏の暑さを防ぐ断熱性があることも体感した。

 子供のころ、障子紙を破る面白さを味わいつつ、紙を貼る手伝いもしていた。障子紙は手漉き半紙を横方向に貼りつないで巻紙をつくり、組子に刷毛で糊をつけて貼っていた。
 当時、組子の割付寸法は半紙のサイズに規定されていたが、近年では機械漉きで3尺×6尺(畳1枚の大きさ)の大判障子紙が作られるようになり、障子組子割付サイズの自由度がひろがった。

和紙の美しさ
 和紙を貼った障子に光が射しこみ、水平方向から温かみのある柔らかな拡散光につつまれる室内空間は、我が国独特の美しい世界であり、西洋建築にはない文化といえる。
 春先、障子に朝日が射しこむと、庭先にある新緑の透過光により白い障子紙に淡い緑色を映しだし、紅葉の季節には和紙がうす紅色に変わるさまは、ことのほか美しい。そして冬の朝、落葉した枝にとまる野鳥の影絵を寝床から楽しむこともある。障子二枚、100インチのスクリーンに季節感を味わえる暮らしは、なんとも豊かである。
 谷崎潤一郎作の「陰翳礼讃」には、我が国の建築内部空間における陰翳の美意識について、趣のある言葉で表現がされているが、ここにも和紙を透した光の奥ゆかしいさまが描かれている。
 「陰翳礼讃」は海外でも評価が高く、インテリアデザイナーや照明デザインで活躍する方は必読書である、と友人から聞いたことがある。

台所
 伝統民家の台所では、熱と空気の動きをうまくコントロールしている。台所の吹抜上部には紐一本の操作で開閉できる明かりとりもかねた窓より、かまどの排熱を効果的に処理している。
 台所は土間空間の北側奥にあるため、竈周囲の土間床の表面温度は盛夏において22℃前後であり、現代の一般的なキッチよりも涼しく心地よい温熱環境といえる。
 終の住処でもその知恵にならい、吹抜け上部に窓を設け、夏季には床下蓄熱水温が21℃前後に安定しているため、床表面温度は23〜24℃ほどである。

 遠野の盛夏昼過ぎは気温30℃を超え、冬季最低気温はマイナス20℃まで下がるため、コンロはIHにし、換気扇は夏・冬モード切り替え可能な機種(冬季は排気量に対し、その50%を熱交換する給気機能付)を選定した。

台所は居間空間に内在

10 –3 和室

 子供のころ、アトリエの隅に埃をかぶった綺麗な細工物があるのを見つけていた。それは赤坂の母の生家の欄間だと聞いた記憶がある。しかし、なぜ欄間がわが家にあったのか、その経緯は不明。
 母方は江戸時代初期から商人の家系で、明治時代の終わりより自転車の製造販売の先駆けをしており、輸入自転車の取扱いもしていたそうである。
 赤坂の店と住まいは1945年5月25日の深夜にはじまった山の手空襲によって焼失している。

 東中野で建て替えた家の和室に、その欄間を使うことにした。西側に面していたため、開口部を大きくとると夏季西陽の影響をうけ室内の温熱環境が極端に悪化するため、欄間部分のみ明かりとりとして嵌め殺し窓とした。地袋は温水暖房ヒーターの収納にしている。

 終の住処でもこの欄間を活用する。この欄間がつくられたのは百年以上前、明治時代の指物さしもの師の精緻な手仕事である。横長スペースのなかに麻の葉、胡麻、桜亀甲という伝統的な吉祥文様の組子を、流れるようにデザインしている技は、腕の確かな匠の手によるものと考えられる。

 終の住処では、付書院のように欄間下に竪繁たてしげ障子を設け、組子は細めにし、縦横のプロポーションは5:1にした。

障子の製作は協同組合ノッチアート遠野の佐々木孝博さんに対応していただいく
掃出窓の障子は東中野より移設

菩薩半跏像 
 父の生家は番匠の家系であった。幕末の動乱から明治維新をむかえ、神仏分離令にともない廃仏毀釈はいぶつきしゃく 運動が盛んになり、暮らしていくには大変な時代だったようである。父の曽祖父は明治初期に京都で修行し仏師として歩みはじめ、父の祖父とともに神仏像、仏壇、彫刻制作を生業としていた。

 父は大正11年(1922)17歳の時、出雲国から彫塑家になることを目指し上京。同郷の芸術院会員である内藤伸先生塾に入門。帝展、文展無鑑査、戦時中は旧加藤軍神像、旧山本元帥像の制作メンバーになっていた。
 戦後は皇太后宮職として貞明皇后(昭和天皇の御母堂様)崩御まで奉職し、美術品の制作・復元にあたっていた。その時、皇太后に献上した菩薩像の習作(全体ボリューム確認用のため細部は未仕上)がアトリエに残っていた。献上した菩薩像にはかざり 職による光背と宝冠がつき、たいそう煌びやかで立派な像であった、と子供のころ母が話してくれたのを記憶している。

四季花図
 母の遺品整理のとき、巻物になっていたこの絵を身近に味わっていたいと思い、遠野へ移住する時、額装にした。絵のサイズから考え、ことによると枕屏風を創るつもりだったのかもしれない。この絵にはさん (画面の余白に書く詩)も落款らっかん (雅号署名と印)も入ってないが、完成間近の作品といえる。

 母は娘時代より書を学んでおり、漢字は黒田筑川先生、かな文字は高塚竹堂先生、その後、日本画は平原香雪先生に師事。書と日本画を生業とし、日本銀行本店で日本画を教授していた。

 父と母は激動の戦中・戦後の時代においても芸術の道に精進し、相当な苦労を経験してきたものと理解している。わが家には両親の仕上がった作品はほとんどない。習作や原型が数多く残っているだけである。
 依頼をうけ作品を制作・納品し、個展で作品を譲渡することにより子供を育て、家族の暮らしをたててきたのである。芸術をのばすには経済的な困難をともない、一生かけ奥を極めることはたやすいことではない、と認識している。

10 –4 寝室

 就寝は畳敷きに布団が好みだったが、年齢のことを考慮し、終の住処ではベットを使うことにした。寝室クローゼットの扉は洋風にするのが普通だろうが、東中野の和室の襖をそのままクローゼットの引戸として活用する。

東中野和室

 母は子育てを終え、経済的にゆとりがでてきたころ、江戸琳派の絵師が描いた金箔下地に岩絵具で描かれた二曲一双にきょくいっそう の竹林雀図屏風を手に入れ、嬉しそうに味わっていたことを記憶している。屏風づくりを制作課題と考えていたようである。
 子育てのころ、この屏風の前で子供たちの成長を祝い記念撮影をしていた。お七夜、お食い初め、誕生日、雛祭りなど。

三姉妹の七五三祝

 母は70歳をこえてから、屏風を創るための下絵の準備をはじめていた。しかし、父が急逝し、その後、母は体調を崩し、父を追うように一年後に身罷みまか ってしまった。
 遺品を整理していると、大判の因州手漉き和紙に素描が何枚も残っており、雁が飛び立つ一瞬を描こうとしていた。水面の表現はどのように考えていたのだろうか。画面の右側には葦が生えていたのかもしれない。そして賛にはどんな情景を語ろうとしたのだろうか。
 屏風を制作しようと模索していた母の意志を記憶にとどめるため、四枚の襖絵として表装することにした。引手は経年的に色艶のよくなる母の好きだったすずりの蓋と同じ桑材にした。

トピックス 10 −2  自由奔放な馬たち
 遠野地方の伝統では、農繁期の5月下旬から10月下旬まで、繁殖用に飼育している牝馬を遠野盆地の北に位置する標高1,000メートル前後の荒川高原に放牧する。
 6月にはいると100頭ほどの馬が高原に放牧され、見応えのある放牧景観になる。毎年高原にやってくる仲間の馬や新参の仔馬たちは30頭前後の群れをつくり、放牧エリア内を自由に移動しながら草をはんでいる。大雨、強風、強い陽射しの時などは、やり過ごすことが容易な場所に移動し、静かに群れをなしている。

 クイーンズメドウでワークショップがあると、ゲストの方々を荒川高原にご案内する。馬たちは見慣れない人たちがやってくるとその様子を観察し、興味をもって近寄り、微笑ましいいたずらを仕掛け、人間の反応を楽しんでいる。
 いつも出入りする顔見知りの人がやってきても、馬たちはマイペースでゲストが来た時のような反応は見せない。

 8月のはじめ、夏休みで帰省した娘のサトコと高原に出かけ、午後から夕方まで過ごした時、馬たちがのびのびと暮らす姿に出会った。陽射しの強い日であり、風通しのいい丘の上にかなりの数の馬たちがくつろいでいた。夕方、その馬たちが水を飲みに丘のふもとにある湧き水まで、次々と斜面を降りてくる様子は実に面白い。
 顔見知りの馬のなかには、こちらの身体に馬体をそっと擦り寄せながら通り過ぎてゆく仕種をすることがあり、それはなんとも愛おしい。

10 –5 アウトドアリビング

 前年の10月4日、二重屋根もでき、屋根葺き工事が完了してひと区切りついた時、今井さんは中秋の名月を楽しみに夕方近く現場にみえた。
 アウトドアリビングとおなじ高さの足場板に腰をおろし、クイーンズメドウの将来についてよもやま話に夢中になっていると、六角牛山の東稜線から月が昇りはじめた。それは今まで見たこともないほど大きく美しい月だった。大気中の湿気が高いためか、わずかに赤味をおび、妖艶な雰囲気をも漂わせていた。
 眼下の遠野盆地には薄っすらともやがかかっており、その靄が月光をうけわずかに光をおびはじめていた。西の空は残照も消え、群青から濃藍色に染まり、月の輝きは一段と冴えてきた。その引き込まれそうな名月とあわせ、盆地にたなびく靄の色あいが刻々と変化するさまを、二人とも無言で見つめていた。

 アウトドアリビングは、伝統的な家屋における縁側的な機能として暮らしに活用しようと考えていた。伝統的な暮らしにおける縁側には、四つの役割がある。ひとつ目は陽射しのコントロール、ふたつ目は自然との接点、三つ目がコミュニケーションの場、四つ目が暮らしの作業場といえる。

 陽射しのコントロールについて、建築家 深川良治さんから解りやすいコンピュータアニメーション見せていただいた。佐賀県に現存する民家とその建っている緯度経度、建物向きのデータを入力し、一年間の太陽軌道を計算し、春分、夏至、秋分、冬至における室内へ陽の射し具合についてアニメーションを創っていた。
 それによると、先人の建てた民家では、春分における太陽の陽射しは縁側と座敷の境目であった。夏至にむけ陽射しは縁側の外へ移動し、秋分の陽射しは縁側と座敷の境目まで戻り、その後、陽射しは座敷のなかに入ってゆき、冬至には座敷の奥まで陽が射すようになっていた。
 伝統民家では、軒の出と高さ、縁側の奥行き(縁側と座敷の境目)を、立地条件を正確に把握したうえで建てていることに、あらためて先人の洞察力・観察眼の鋭さに感嘆した。この知恵を活かす役割は、地域の長老や大工棟梁が担っていたのかもしれない。現代において、ここまで正確に立地条件を把握し設計する建築家は、はたして何人いるのだろうか?

 5月初旬から10月初旬にかけ、テラスには大きめの日射遮蔽オーニングを取付ける予定である。オーニングは陽射しを75%遮るという農業用遮光シートが、ホームセンターで入手できる。このシートはクイーンズメドウで性能を確認している。
 陽よけを設置しないとテラス木部の表面温度は50〜60℃以上になり、暑くて使えないうえ、居間空間はテラスからの熱放射を受け、温熱環境が悪化する。

オーニングを設置するとデッキ材表面温度は気温プラス2℃ほどで安定

 アウトドアリビングは居間の半分ほどの広さで、屋外環境へと連続している。気分転換に素足のまま屋外へでて、テラスからわが家の外観や室内の様子を眺められる視点を持つことは、なんともいいものである。 
 急な来客や気のおけない友人との語らい、井戸端会議、ちょっとした集いなどには、折りたためるデッキチェアとテーブルがあれば十分対応が可能だ。障子紙の貼り替え作業、風呂上がりのビールなど、暮らしにはこのテラスがおおいに役立つ。

 広々とした眺めを邪魔しないよう手摺は何もつけたくないが、年齢と安全に配慮し、すっきりした木の手摺にする。手摺子はスチールにし鉄工所に依頼。テラス材料は、東中野の家でテラスや板塀として30年間使ってきた防虫防腐剤の加圧注入した2x8材を再利用する。

引越し
 遠野に移住すると決めてから土地探しに3年、東中野の家を解体し部材を遠野に運び保管し、仮住まいに引越す。そしてセルフビルドによる家づくりに2年かかった。この5年間は実に時間の経過が速かった。
 ようやく引越しできるようになったが、心身ともに疲れが溜まっているためか、湧きあがるような感情もない。来月は古稀になる。

 セルフビルドによる終の住処づくりは、生活してゆくのに最低限必要なことは出来上がった。四季、気持ちよく暮らせるようになるまでは、まだいくつかの細々とした作業をしなくてはならない。区切りとして引越し、生活をしながら使い勝手に配慮してゆこうと考えている。
 市内の仮住まいと倉庫に預けてある生活用具などを、9月下旬より軽トラで徐々に運び込み、10月7日に暮らし始め、一週間後に家内は東京より引越してきた。

引越した翌日の印象的な朝焼け

引越ししたら猫が来た
 8月末ころ、かなり遠くから動物の鳴き声がたびたび聴こえるようになった。この辺りに生息する野生動物には、あのような鳴き声の動物はおもいあたらず、訝しげに思っていた。
 その後、一週間、二週間と時がたつうちに、その鳴き声の主はかなり近くまで移動してきているようだ。朝夕、工事をしてないとき、注意深くその鳴き声を聴くと、あきらかに猫に違いないと確信した。しかしなぜ、猫がこんな所にいるのだろうか? 飼い猫が集落から1kmも離れた場所まで遠出することはないだろう。この辺りには野生の猫はいないはずなのに . . .
 もしかして、新種のトオノヤマネコ!?

 子供のころ猫を飼っており、猫との基本的なコミュニケーションは鳴き声でできるようになっていた。そこで、朝夕の静かな時、その猫の声が聴こえた時、「こっちさ(こ) 」と遠野弁で猫の声を真似た。何度か声をかけると、その猫から返事が返ってくるようになった。
 引っ越して三日目の早朝、屋外に動物の気配を感じ、そーと寝床を抜け出し、テラスに面した障子を静かにほんの少し開け、外を窺うと、何とテラスに猫がいるではないか!

 ガラス戸を開け、テラスに出ると、その猫は三つ指ついて「ニャーオ」と挨拶した!こちらも、すかさず「ニャーオ、オハヨ」と声をかける。子供のころ可愛がっていた「チビ」という名の猫と似たような毛色であった。

 その子は、とても人懐こく、どう見ても飼い猫のようである。外で片付け作業をしていると、傍に寄り添いつつ、飛んでくるバッタをジャンプして叩き落とし、うまそうに食べたりもしている。野生のサバイバル術が身についているようだ。
 少し離れた井戸へ行くときなど、先を走り途中で木登りをしたり、付かず離れずちゃんとついてくる。面白い相棒ができたようで、気持ちが和む。

トピックス 10 –3  不動明王像 寄進
 クイーンズメドウへのアプローチ道路は、荒川駒形神社参道を上がってから南に入る。 2000年に本館、2006年の新館完成時、今井さんは駒形神社に鳥居を寄進している。

参道入口に一の鳥居 春の山上げ
本宮・御神木のところに二の鳥居 QM敷地の山で伐採した栗の木を馬で搬出し、造った鳥居 秋の山下げ

 終の住処の正面に眺められる六角牛ろっこうし 山の麓には、1200年ほど前を起源とする由緒ある六神石ろっこうし 神社がある。征夷大将軍の坂上田村麿が朝廷より蝦夷地平定の命をうけ遠野に遠征した折、六角牛山頂に薬師如来、麓に不動明王と住吉三神を祀っている。
 一年前、地鎮祭を執り行っていただいた千葉宮司さんによると、なぜか不動明王は行方不明とのこと。明治維新の神仏分離令に伴う廃仏毀釈運動による影響か、それとも戦後の混乱期になくなったのかも定かでないそうだ。

 そこで、父の作品である不動明王を寄進してはどうか、と思い巡らしていた。
 遠野移住時に美術倉庫に預けた不動明王像の高さは2尺4寸(72センチ)あり、終の住処で日常的に置いておくゆとりもなく、倉庫に預けっぱなしにするのはまずいと思っていた。
 遠野に骨を埋めるつもりでいるため、この地の神様にご挨拶として寄進することを父は喜んでくれるだろう、と考えはじめていた。

 このお不動様は銀座で個展を開催していたとき、譲り受けたいとの申し出があったが、父はまだ気になる部分があり、手を加えたい旨を伝え辞退し、アトリエで思い出したように時々手を加えていたことを記憶している。
 父と深川木場の運河で探した楠の木を数年寝かせ、粗彫りは中学生のときに手伝っていた。

 六神石神社の本殿手前の幣殿に不動明王像を安置し、千葉宮司による厳かな奉納の儀式が執り行われた。

トピックス 10 –4  馬たちの別れ
 半年近く高原で一緒に暮らしてきた馬たちは、10月下旬になると飼い主がやってきて馬運車でそれぞれの家へ連れ帰ってゆく。馬たちは放牧ゲート周辺に集まり、別れがつらそうに(いなな) き、ざわついている。
 クイーンズメドウでは、馬を引き徒歩で山上げ・山下げを恒例にしている。この年は、まだ半数近い馬が高原に残っており、3頭は帰りたがらず、特にお婆ちゃんのエリアナは動こうとしなかった。400kg近い馬体は人間が力ずくで引いてもビクともしない。

 ようやく3頭をゲートの外に連れだし歩きはじめると、山を下りる馬と高原に残る馬との間で、別れが惜しそうにいつまでもフェンス越しに嘶き、ついて来る馬たちの素直な情感はこころに響く。

←第9章 左官

終章 おわりに→